


「感動」がパターン化された映画や小説、TV番組などが数多くあふれている。最近は、少し前ほどには大ヒットとはならなくなったものの、しかし依然として「大衆娯楽」を取り巻いているのは事実だ。
作り手側も、どこかの肉屋の社長のコメントではないが、「消費者がそうだから」と言って、やはり作り続けている。
広告業界にいた私は、そんな「表面的に映る大衆の欲望」が市場を動かすものだと理解しつつ、だが「人間」としてどこか違うのではないか、そこを突っついて金儲けしてさらに大衆の感性を麻痺(?)させていくデフレスパイラルに加担することに、疑問と罪悪感を持ってきた。
だが、そんな人は決して少なくないだろう。
『東京ソーダ水』はドキュメンタリー映画だが、元々私はドキュメンタリー畑ではなく、コテコテの「劇映画志向」である。さらに言えば「大衆娯楽映画」を目指している。メイキングフィルムとか含めなければ、本作が初のドキュメンタリーとなる。

| 経済的に苦しい時代であるにも関わらず、飢える心配はなく、モノにあふれ、政治の行く末なんか気にしなくても平気で生きていけるこの「スカスカした時代」をどう生きるか。 どうしたら「みんながイキイキ生きられるか」、そんなヒントを劇映画で突き詰めていけないかと常に考えていた。 (「おもしろき こともなき世を おもしろく」) 時代の俳優とは、まさにその時代の鏡である。 |
| 何よりも、私が感じる「ホンモノの生きザマ」と、人の感じるものと、いったいどれだけのギャップがあるのか。私のそれも、果たして本当にそれは「ホンモノ」なのか。 劇映画は「フィクション=つくりもの=ウソ」なんだけど、しかし、そこに「嘘」があってはならない。そういうのを御座なりに作っている人を見ると無性に腹が立ってくる。それは私自身にもだ。 自分がメシを食うのを口実に嘘をついてモノを作っていいのか。否。 |


| 表象された映像や言葉には、「ホンモノ」も「ウソ」もある。それら全てをそのまま受け止める。 ある時間帯に起こったありのままの姿を撮らえることによって、その人間の「現実」を見る。そこに過剰な演出を入れない。 そして1人だけでなく、4人、いや8人を追うことで、いまの「ニッポン人」を俯瞰し、その本質に近づけるかもしれない。 もしかしたらそこに求めていた「答え」が潜んでいるかもしれない。 |
だが一方で、映画として果たして成立するかどうか分からなかった。定石的な制作手法・演出手法から脱却し、あくまで「あるがまま」に近づいていく。映画としては非常に難しいものになるだろうという予感はあった。
映画は観客が観た時に初めて完成する。私はこの作品の中の人物たちを、観客が「自分自身」と置き換え、「生きる」ことを考える一つのきっかけになってくれればいいと思い、この作品を作ることを決断した。
様々な紆余曲折を経て、結果的に、この作品は客観性を突き詰めた部分と、東京を主観で語る部分とに分けた構成となった。
8人の生きる女性たちの生き方を、限りなく説明をはぶき、強引な「物語」を作らずに、ありのまま映し出していく。
そして逆説的であるが、東京の再開発をモチーフとし、「ぼく」主観で語るナレーションの部分。
それらを覆うように流れる山崎ハコさんのインパクトある歌声と詞、メロディ。散文的な構成をあえて行ない、全てを観客に委ねるようにした。
私はこの作品の、総監督・構成・編集・プロデューサーという、偉そうな立場の肩書きではあるが、他にユニット監督や構成などのスタッフ、さらに奥山和由氏といった大物プロデューサーといった、多くの人々の中で、本当に「あるがままの無私」を貫こうとした。
もともと胡散臭い「物語」を演出する気はなかったので、ある意味では楽ではあった。
劇映画という、いかにも主観のジャンルを作ってきた時にはなかった「もの」を、この作品の中で得られたような気がする。
『東京ソーダ水』は、スクリーンの中で留まって完成するような作品ではない。
この作品に関わり、そして観た人々を含めて、これから生み出されていく「現実」をもって完成に至るムーブメントとなっていくことを願う。
「生きることを実感」する素直な力が、現代人に蘇ってくれば、少しは世界もマシになるだろう。
「感動をありがとう」ではなく、「感動を見つけよう」といった「生きザマ」の方が、私はカッコいいと思うのだが。
そんな想いで完成したのが、『東京ソーダ水』である。